2008年06月06日

6月6日 東京市長後藤新平

一昨夜の「そのとき歴史が動いた」の放送をご覧になられたお方もおられると思います。東京市長をなされた、後藤新平さんのお話でした。ご覧になれなかったお方や、後藤さんをご存じのないお方もおられると思います。番組のダイジェストに、私がほんの少し伝え聞いたことを簡略に書かせて下さい。
後藤さんはお医者さんだったのですが、その医療技術や熱意のほかに、保健衛生学や都市工学などへの情熱を、軍や政府に乞われました。当事植民地となった台湾や満州の都市づくりに手腕を発揮したんですね。それは医学、保健衛生学の観点から、防疫といいましょうか、予防医学に力点をおいた公衆衛生重視の都市でした。つまりは将来の都市のありかたを、市民の健康保持に主眼をおいた構想だったわけです。その業績が認められ、重要閣僚や貴族院議員などを経て、第七代東京市長に任ぜられたわけであります。当事の東京が、いまだ江戸の町そのままだったことに憤り、近代都市東京のグランドデザインを描いたわけです。そのプランは着々進められました。しかし、辞任直後の大正12年9月、関東大震災で壊滅してしまったんですね。政府は後藤を、臨時の帝都復興院総裁という立場でとよし、見事東京を再生なさったわけです。現在のインフラの基盤を作られたわけです。


その後藤の私邸を、のちの読売社長の正力松太郎が訪ねる。
「後藤先生、私は警視庁警務部長を辞任し、新聞社を創業したく考えています。つきましては資金を持ち得ません。先生のご尽力を賜ることはかないませんでしょうか。社名は読売新聞としたく考えています」
「よし、わかったよ正力君、なんとかしよう」
こうして読売新聞は創刊された。正力はふと、
「さすがわ後藤先生だ、よくぞこの俺に莫大な資金を都合してくださった。だが先生ほどの大政治家だ、どこかの深いつながりで容易にご便宜なされたのだろう。あまり気にかけることもないだろう」
などとつぶやきさえ出てしまうこともあった。
そして、後藤新平死去。正力は思いもかけぬことから、借入金の真相を知ることになる。
それは、後藤新平が自分の名で右から左に工面した金ではなかった。後藤の全私財を担保に、金融機関から借り入れたものだったという。正力松太郎は鳴いた。男泣きに鳴いた。我が身の浅はかを悔やんだ。
「後藤先生、有難うございます。こんな私をとうていお許しにもなられませんでしょうが、この正力、新聞をつうじて社会の眼目となることをお誓い申し上げます」
泣き崩れる正力の後姿に、信奉者の真影があったことはいうまでもない。
posted by さっぜさん at 09:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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