2008年10月16日

10月16日 さっぜさん

私は「さっぜさん」というネットネームでぶろぐ活動してますが、さっぜさんとは私の養父のニックネームだったんですね。このブログでも書いたことがあるかとも思いますが、名前を作左衛門(さくざえもん)といいまして、明治35年の寅年生まれの時代遅れな人でした、今日はそのさっぜさんの命日なんです。昭和56年のことでしたから、没して27年程前になりますか。いい親父でしたが、どうもあのオールドファッションだけはいただけませんでした。
こんなことがありました。もう日本もかなり電化製品が当たり前になって久しくなった頃、ようやくあることから、冷蔵庫をいれたんです。そしたらなんという奇異なことをいたしましたでしょうか。コードをコンセントから抜いてしまったんです。つまり、差込を入れっぱなしでは電気代がもったいないという理屈なんですね。差し込んだり抜いたり、交互に繰りかえせばいいというんです。もう絶句でした。その結末たるや、ぬいたはいいがそのことを忘れてしまい、中野あれこれなんて死んでしまっていたわけです。しんじられませんよね、時代の生活にどうして馴染めなかったんでしょう。
そんな親子関係が始まり、54年程昔のことでした・・・・

昭和二十九年八月十九日、私にとってもうひとつの誕生日。昭和二十四年十月八日が生年月日なら、この日はもうひとつの戸籍年月日といえる。生後僅か四年十ヶ月にして、実父母を離れ、祖父母の養子という運命の峠を越えてしまった。私はあのときの記憶が鮮明に、両眼の記憶膜に残り、消えはしない。そのとき両親は、私の頭を撫でてやろうともせず、なにかおやつめいたものでも手渡そうともせずに、無言で手放した。たぶん愛情の希薄ではなく、そんなお別れのポーズに無頓着だったのだろう。私の祖父は、自転車で私を迎えにきて、
「さあ幸作、今日からじいちゃんの子だ、じいちゃんの家まで帰ろう」
と声をかけられ、自転車の荷台に乗せられた。幼い男の子にとって、両親との別離なら悲しいはずなのに、悲しさも悔しさも感じなかった。むしろそうなることを望んでいたのかもしれない。そのせいだろうか、嫌がる素振りも見せず、泣くこともしなかった。幼心に、祖父母の優しさを心地よく感じていたに違いない。
あれから五十余年、私も祖父になってしまった。私の養父母同様、幼い孫を育て上げることができるかと問われたならば、そのような自信もないし、そのような身勝手なんてできようはずもない。育て上げた養父母のあのエネルギーやパワーはなんだったんだろう。孫のかわいさはとことんわかる。だが、正業を営み、家庭円満の夫婦に生まれた第一子としての長男を、よくぞ縁組したものだと呆れてしまう。
やがて、そんな幸作の運命的な生い立ちが、自分の生きていく針路を窮屈なものにしていった。祖父母だから、私の成長に比例して益々老齢化していく。そんな親の姿が私の脳裡を離れることはなかった。自由に生きたい若者にとって、病と老いた二人のお世話が、できようはずもなかったのです。
私にも二人の孫がいるんですが、とことんとことん自分の人生、好きなように好きな生きかたを望んでやまないんです。
posted by さっぜさん at 09:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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